カムシンという名は、エジプトの砂漠を吹き荒れる熱風に由来します。マセラティが風の名を車名に選ぶのは伝統ですが、この車が纏った風はいくぶん奇妙な性格をしていました。フランスのシトロエンが経営に関与していた時期の産物であり、イタリアの造形とフランスの技術思想が同居しているのです。
後端のガラスと、高圧油圧に支えられた操作系
カムシンで最も語られるのは、車体後端の処理です。通常なら鋼板で塞ぐ部分を一枚のガラスとし、そのガラスのなかに尾灯を浮かべるように取り付けました。後方視界を確保しつつ、他に類のない後ろ姿を生んでいます。
- 車体後端をガラスで抜き、尾灯をそのなかに配置
- 制動、操舵、変速機の断続、座席や灯火の作動に高圧油圧を利用
- 操舵は油圧の助勢を受け、直進方向へ戻ろうとする力が意図的に強い
- 格納式の前照灯も油圧で作動
油圧系統は、シトロエンが自社の高級車で完成させた高圧の考え方を持ち込んだものです。制動ペダルは踏み込む量ではなく圧力に反応し、慣れるまでは戸惑うほど鋭く効きます。
設計思想——重心を後ろへ、居住性は前へ
心臓は4.9リッター級のV型8気筒。四本のカムシャフトを持つこのエンジンは、機関室のなかで可能な限り後方へ寄せて搭載されました。前車軸より後ろに重量を置くことで、前後の釣り合いを整える狙いです。
後輪は独立懸架とされ、それまでのマセラティが用いてきた固定車軸から進化しています。二人分の座席の後ろに補助的な空間を設け、荷物と短距離の同乗に応える構成も、長距離を走るグランツーリズモとして理にかなうものでした。
同時代のフロントエンジンGTとの比較
1970年代半ば、注目はミッドシップのスーパーカーに集まっていました。そのなかでカムシンは、あえて前置きエンジンの二座席GTという伝統的な形式を守ります。
選んだのは、実用に耐える速さでした。荷物を積み、長い距離を高速で移動できる。ミッドシップ勢が持ち得なかったこの資質が、いま静かに再評価されています。生産台数は400台強とされ、同時代のマセラティのなかでも希少な部類です。
主要スペック
| 項目 | 内容(おおよその値) |
|---|---|
| エンジン形式 | V型8気筒 DOHC(各バンク2本カム) |
| 排気量 | 約4,900cc |
| 吸気 | ウェバー製キャブレター4基 |
| 最高出力 | 300馬力台とされる |
| 変速機 | 5速マニュアルまたは自動変速機 |
| 駆動方式 | フロントエンジン・後輪駆動 |
| 車体 | 2+2クーペ(後端はガラス) |
| 生産台数 | 400台強とされる |
| 生産年 | 1974年〜1982年ごろ |
コレクターズガイド——なぜ今も価値があるのか
カムシンは長く評価が伸び悩んだ車でした。油圧系統への警戒心と、同時代の派手なミッドシップ車の陰に隠れたことが理由です。近年はその独自性が正当に見直されつつあります。
- 油圧の球体や配管の状態確認は必須。整備歴の裏付けが最重要
- 後端のガラスと専用の尾灯は、破損時の入手が難しい
- 四基のキャブレターの同調には専門知識が要る
- 前後のフェンダー内側と床下の腐食は、修復に手間がかかる
欧州には油圧系統を熟知した専門家が残っており、正しく整備された個体は驚くほど快調に走ります。恐れるべきは機構そのものではなく、放置の履歴です。
マセラティとシトロエンの時代
マセラティは1914年にボローニャで創業し、レースの世界で名を上げた会社です。1960年代末、経営はフランスのシトロエンの手に渡り、両社の技術が交差する短い時期が生まれました。
この時期に生まれた車は、いずれもフランス的な合理性とイタリア的な官能を併せ持ちます。カムシンはその最後期の作品であり、二つの文化が交わった記録として、他に代えのきかない存在です。
トライデントの現在
シトロエンとの関係が終わった後、マセラティは所有者を変えながら存続し、現在はグランツーリズモとサルーンを軸に活動しています。
海の神の三叉槍を掲げるこのブランドは、レースの記憶と長距離を優雅に走る車の系譜を、いまも並行して抱えています。カムシンは、その後者の系譜のなかで最も冒険的な一台でした。
よくある質問
Q. なぜ後端がガラスなのですか?
A. 後方視界を確保しながら、後ろ姿を軽やかに見せるためです。尾灯をガラスのなかに配置することで、独特の浮遊感が生まれました。
Q. 油圧系統は本当に怖いのですか?
A. 正しく整備されていれば信頼性は高い機構です。問題になるのは長期の放置による漏れや固着で、購入前に作動状況を確認することが重要です。
Q. 制動の感触が独特と聞きました。
A. 踏み込む量ではなく圧力で効く方式のため、最初は鋭く感じられます。慣れれば意のままに扱えますが、試乗での確認をおすすめします。
Q. 2+2の後席は使えますか?
A. 大人が長時間過ごすには狭く、荷物置き場としての実用性が中心です。長距離を二人で走る車と考えるのが妥当です。
