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Lamborghini Miura——世界初のスーパーカー、1966年の革命

Lamborghini Miura スーパーカー クラシック

1966年のジュネーブ・モーターショー。ランボルギーニのブースに置かれた白いボディのシャーシ(エンジンむき出し)が来場者の視線を釘付けにした。翌年のショーでは、ベルトーネが手がけた完成ボディを纏ったミウラが発表された。12気筒エンジンを横置きにミッドに搭載したこのレイアウトは、それまでの「スポーツカーはフロントエンジン」という常識を根本から覆した。

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若者たちの反乱——会社の許可なく開発

ミウラ開発の発端は驚くべきものだった。ジャン・パオロ・ダラーラ(25歳)、パオロ・スタンツァーニ(25歳)、ボブ・ウォレス(テストドライバー)という20代の若手3人が、業務時間外に「理想のスポーツカー」を秘密裏に設計し始めた。フェルッチョ・ランボルギーニ(創業者)はこれを後から知り、激怒するどころか「パリ・サロンに出品しよう」と言ったとされる。

スペック

項目詳細
製造年1966〜1973年
エンジン3.9L V12 DOHC 横置きミッドマウント
最高出力350〜385馬力(仕様による)
変速機5速MT
車重1,292kg
最高速度280km/h(P400S)
0→100km/h6.7秒
生産台数764台(全型合計)
Lamborghini Miura スーパーカー クラシック

マルチェロ・ガンディーニのボディ——ベルトーネの奇跡

ミウラのボディをデザインしたのはマルチェロ・ガンディーニ、当時26歳。ベルトーネに入社してわずか数ヶ月だった。エンジンルームを覆う縦型スリット、超薄型のAピラー、つり目のヘッドライト——これらが組み合わさった独特のフォルムは、「ミウラより美しいクルマは存在しない」と言わしめた。ガンディーニはこの後カウンタック、ストラトスなど数多くの傑作を生み出すが、ミウラは今でも彼の最高傑作と言われることが多い。

高速走行の問題——フロントが浮く

ミウラは220km/h以上の高速ではフロントが浮き上がる(リフト)問題があった。フロントへの荷重が不足するこの現象は、1970年代のエアロダイナミクス技術では解決が難しかった。SV型(最終型)でフロントスポイラーの改良により改善されたが、完全な解決には至らなかった。それでも、当時のドライバーたちはミウラの走りに魅了され続けた。

Lamborghini Miura スーパーカー クラシック

現代における評価——最高のランボルギーニ

ミウラは現在のランボルギーニオーナーやコレクターの間で、「ランボルギーニ史上最高の一台」に選ばれることが多い。ウラカン、アヴェンタドールと言った現代の超高性能ランボルギーニよりも、ミウラのほうが「魂がある」という評価も多い。市場価格は3〜5億円以上。

ランボルギーニの誕生——トラクター農家がフェラーリに挑んだ日

フェルッチョ・ランボルギーニはイタリアの農業機械メーカーとして財を成した後、フェラーリ250 GTを購入した。しかしクラッチの不具合を指摘するとエンツォ・フェラーリは「農夫にフェラーリは理解できない」と一蹴。この屈辱がランボルギーニにスポーツカー開発を決意させた。1963年、ランボルギーニ・アウトモビリが誕生した。

ミウラが変えた世界——スーパーカーという概念の発明

1966年のジュネーブ・モーターショーで発表されたミウラは、「スーパーカー」という言葉が生まれるきっかけとなった車だ。ミッドエンジン横置きV12という革命的レイアウトは、それまでフロントエンジンが常識だった高性能車の世界を一変させた。デザイナーはわずか26歳のマルチェロ・ガンディーニだった。

牡牛の名前を持つクルマたち

ランボルギーニのモデル名は闘牛の名前から取られるという伝統がある——ミウラ(牧場名)、カウンタック(ピエモンテ方言で「驚き」)、ディアブロ(悪魔)、アヴェンタドール(闘牛士の名)。この命名規則はフェルッチョのフォルムとして今も受け継がれ、ランボルギーニというブランドのDNAを象徴する。

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Author of this article

クラシックカー専門ライター。自動車雑誌の編集部に12年在籍し、欧州車・国産旧車の取材を担当。独立後はイタリア・英国のクラシックカーイベント取材やオーナーインタビューを重ね、これまでに試乗・取材した旧車は300台以上。愛車はアルファロメオ ジュリア スーパー(105系)と、レストア中の国産旧車1台。「名車の物語を、次の世代に手渡す」をモットーに、スペックの羅列ではなく“そのクルマが生きた時代”まで伝える記事を心がけている。

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